詩碑「あの町この町」

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 雨情が住んだ旧居は、鹿沼街道の拡幅で向きを変えたが、所有者の稲毛家で保存され、雨情生存中の面影を残している。旧居は有形文化財指定(平成17年11月10日付)として登録されている。
 戦後、この家を訪れた言語学者の金田一春彦は、つる夫人に「雨情さんが寝ていた部屋はどこですか」と聞き、案内されると、「この部屋ですか。寝られたのはどの辺ですか」と尋ね、教えられると、そこに仰向けになって寝転び、「あー、ここで雨情さんは寝ていたのですね」と言って、手足をばたつかせて感激したという。
 昭和33年4月27日に建立された、雨情旧居のシンボル「あの町この町」の詩碑(権藤圓立書)も、敷地が二度にわたる鹿沼街道の拡幅で買収され、狭い三角地になった。
 建立までの経緯について、詩碑集『石に刻んだ雨情の心』(宇都宮雨情会編、昭和61年)のなかにこう記述されている。
  
 ようやく世相に鎮静の兆しが見え始めた昭和30年、元の居住地、武蔵野市吉祥寺に引き揚げることとなった。しかし、つる夫人は去りがたい思いを何に託すか思案の末、鹿沼街道改良工事で離れ島になった約160平方メートルに記念碑を残したいと、生前親交のあった近くに住む歌人蓬田露村に打ち明けた。これが発端となって、多くの歌人や文化人の賛同を得て、雨情詩碑建設委員会が発足、詩文はつる夫人の希望で「あの町この町」に決まった。
 昭和33年4月27日の除幕式には、つる夫人や鹿沼市に住む二女 山登千穂子をはじめ、東京雨情会会長らも出席して盛大に行われた。この際、東京雨情会の古茂田信男会長は、即興で「遠い菜畑雨明り」と詠んだ。

あの町この町

 あの町この町
 日が暮れる 日が暮れ
 今きたこの道
 かえりゃんせ かえりゃんせ
 お家が だんだん
 遠くなる 遠くなる
 今きたこの道
 かえりゃんせ かえりゃんせ
 お空に ゆうべの
 星が出る 星が出る
 今きたこの道
 かえりゃんせ かえりゃんせ
 

 作曲者は中山晋平であり、「船頭小唄」「兔(うさぎ)のダンス」など数多い歌をコンビで世に広めた。晋平は亡くなるとき、この歌を口ずさみながら息をひきとったという。
 わがまちの単位老人クラブは雨情の名を付けた「雨情寿会」と称して、毎年発行している会誌名を「あの町この町」(平成27年度で33号となった)として、永く親しまれている。また、この歌をテーマソングとして、会合などの始めにみんなで合唱し、親しんでいる。