平和な世を知ることなく

HOME | 平和な世を知ることなく

 数多くの童謡や民謡の作詞で知られる詩人野口雨情は、自らの終焉の地を宇都宮市鶴田町1744番地の羽黒山麓に選び、昭和20年(1945年)1月27日にこの地に没した。そこには今も、かつて住んだ家(旧居)が保存され、「詩人野口雨情ここにて眠る」と当時の市長が揮ごうした筆塚や、「あの町この町」などの詩碑が建立されている。
 昭和18年2月、雨情は突然軽い脳出血に冒された。それでも以前からの約束があった山陰と四国へ、これが最後の旅行と出かけて行った。そのうち体調も思わしくなく、また空襲も激しくなったため、昭和19年1月、東京・武蔵野市吉祥寺の自宅から疎開して療養に専念することになった。
 宇都宮に来てからは詩作もほとんどできない状態で、縁側で日向ぼっこをしながら、時折短冊や色紙を書くくらいだった。
 雨情が終焉の地にこの地を選んだのは、つる夫人の父のアドバイスによるといわれる。東京の戦火を逃れる疎開先として、療養にも最適とこの地を勧め、つる夫人も現地を確認したうえで決めたといわれる。
 雨情が移り住んだころの羽黒山辺りはまだ純農村で、山の反対側の丘陵地では軍隊が新兵と新馬の訓練を行っていた。雨情の屋敷は1.7ヘクタールの柿園とイチゴ畑に囲まれ、裏の鹿沼街道を通る人や車もほとんどなく、静かな療養生活にはもってこいの環境だった。
 それから71年の間に急速に都市化が進み、閑静だった一帯には東証一部上場企業が立地し、周辺は住宅街となって、居住環境は一変した。
 鹿沼街道も3倍の幅員に拡幅され、近くには宇都宮環状道路「宮環」が開通した。鹿沼街道との立体交差は「雨情陸橋」と名づけられ、駒生川に架けられていた鶴田橋も区画整理事業で移転して「雨情橋」となった。詩人雨情の名は、固有名詞として永遠に残ることになった。
 羽黒山麓の居宅で雨情は、よく縁側で外を見ながらもの思いにふけっていることがあった。つる夫人が「何を思っているんですか」と聞いても、「うん、ちょっと考えているだけだ」というだけで、あまり語ろうとはしなかった。
 病気のために自然に体は弱まり、7月の宇都宮の戦災も、8月の日本の敗戦も知ることなく、静かに62歳の生涯を閉じた。
 死後ノートの隅に書かれていた未完の詩が遺稿となった。
 
空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ
今日は現世で 昨日は宿世
明日は来世か お天道さまよ
遠い未来は 語るな言うな
明日という日を わしゃ知らぬ
昨日暮して 今日あるからにゃ
明日という日が ないじゃない
空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ    雨情
 
 最後の一行は、詩としての体裁を整える意味で、つる夫人が付け加えた。
 鶴田での一年間に残された色紙や短冊は少ない。
 
夜明け頃やら羽黒山あたり
朝の朝日がほのぼのと      雨情
 
国のほまれか靖国の
神とまつらる益荒夫は      雨情 
 
 「国のほまれか……」は、雨情旧居から南へ、当時では三軒目の小松利克宅にある。つる夫人は慣れない畑仕事などを教わりにしばしば訪れていた。雨情は、昭和19年9月に小松家の主人が中国で戦病死したのを聞き、自ら色紙に筆を取ってつる夫人に託し、お悔やみを伝えた。
 
けふも畑に わしゃひとり    雨情
 つる夫人が、鶴田から吉祥寺へ引き揚げる際に、同じ組内だった小島延介宅に「お世話になった印」と置いていった短冊。(大根の)絵が添えてあるのは珍しいが、この地で書いたものとは違うとつる夫人に言っていた。
 雨情旧居を保存している稲毛登志一宅にも条幅があるが、これはこの地に来る以前の作。
 
遠い深山の年ふる松に
鶴は来て舞ひ来て遊ぶ      雨情
 
 疎開先での療養ということで、この一年間に会った人はきわめて少ない。同じ組内では唯一雨情に会った前田一雄は、昭和46年に上野百貨店で開かれた遺作展の際のパンフレットにこう書いている。
 
 私が戦地から帰還したのは昭和19年12月の中旬でした。今の三の沢西町会は当時わずか18戸で一隣組でした。
 大東亜戦争で3カ年ほど戦地にいて、幸い命長らえて無事帰還した私は、留守中世話になったお礼の挨拶に雨情宅を訪問しました。門を入って家の表の方に行ったところ、雨情さんは和服に丹前を羽織って縁側で日向ぼっこをしていました。
 私が「留守中お世話になりました」と挨拶をしたところ、雨情さんは口をもごもご動かしているだけで言葉になりませんでした。そのうちに台所で炊事中だった奥さんが手を拭きながら出て来られて、代わって挨拶をされ、中風で口が思うようにならないとのことでした。
 私は型通りの挨拶で一軒ずつ回ったので、せいぜい数分間の雨情さんとの対面でした。それから1カ月後に永眠されました。
 
 

羽黒山麓の居宅