生い立ちから終焉まで(省略)

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明治 明治15年(1882年)5月29日、茨城県多賀郡北中郷村大字磯原103番地(今の北茨城市磯原町)に、父 量平、母 てるの長男として生まれる。本名は英吉。
同34年4月、東京専門学校高等予科文学科(早稲田大学の前身)に入学する。
同37年(22歳)1月に、父が村長在職中に死亡したため、故郷磯原に帰り、家督を継承するとともに、栃木県塩谷郡喜連川町(今のさくら市)の高塩家の娘ヒロ(明治15年5月15日生)と婚約、同38年(23歳)に結婚。
同39年(24歳)長男雅夫出生。6月に日露戦争の勝利により樺太(今のサハリン)の南半分が日本領になったため、7月報知新聞樺太通信員として樺太に赴き、10月に上京する。
明治40年(25歳)函館市で新聞記者として二年余流転。妻ヒロも身重な体の上に、生まれたばかりの長男雅夫を背にして雨情に付いて行く。函館で焼け出され、札幌に居を移して石川啄木とともに小樽の小樽日報社の創業に加わって三面記事を担当するが、主筆と対立して小樽日報社を去る。 札幌時代の啄木について、こんな記述もある。  石川啄木代表作は和歌にある。或る人の言わるるには、啄木の作品のどれを見ても深みが乏しい。もっともっと深みがなくては不可(いけない)。要するに歳が若かった為だろう。今2、30年も生存していたら、良い作品も沢山残しただろうという見方も一つの見方かも知れないが、私はそうとは考えていない、和歌は散文でなく韻文だからヒントさえ捉めばそれでよいのである。
明治41年(26歳)小樽で長女みどり出生するが、8日後に死去。この年、北海道新聞社など道内の新聞社勤務を転々とする。
明治42年11月 北海道を離れ、帰郷後上京。
明治44年(29歳)東京有楽社に入社、『グラフィック』(写真時報)の編集に携わる。6月に郷里から妻子を呼び、続いて母てるを引き取る。8月皇太子殿下(後の大正天皇)が北海道に巡啓された際、グラフィックの報道記者として一団に加わり、北海道へ渡る。9月母てる危篤の報に接して帰京したが、臨終に間にあわず。10月郷里に引き揚げ、家業の植林事業に携わる。
大正3年(32歳)郷里で消防団長、磯原漁業組合長を務め、その後、入山採炭株式会社の事務員となって福島県湯本温泉(今のいわき市)の入山鉱業所へ通う。そのころ芸者置屋の女将明村まちに世話になる。
大正4年(33歳)5月10日妻と協議離婚届出。ヒロは磯原の家へ二人の子を置いて喜連川に帰る。六月二児を連れ、福島県富岡町の旅館中屋に滞在して開拓事業に携わったあと、北海道に赴く。 大正5年1月 ヒロ除籍。
大正6年(35歳)10月に「長子雅夫に告ぐ」一巻を手渡して家出、7月、ヒロは喜連川の実家に帰る。事実上の離婚。 大正七年(38歳)十月、明村まちと別れて湯本を去り、単身水戸に出て旅館兼下宿屋「対紅館」の娘で20歳年下の中里家の長女つる(明治35年12月12日生)と結婚、水戸市に住んで文学生活を始める。このころの作「枯れすすき」を作詞、中山晋平に作曲を依頼する。(のちに「船頭小唄」と改題されて大ヒット)。
大正9年(38歳)『金の船』の童謡欄の選者となり、「萄黍畑」発表。六月に上京して東京童謡会を結成。ヒロが子供を養育するため磯原の野口家に戻り、雅夫の母として入籍する。「十五夜お月さん」を発表。
大正10年(39歳)「船頭小唄」を中山晋平作曲で発表。童謡「十五夜お月さん」「七つの子」と続いて発表。12月、「青い目の人形」「赤い靴」を発表。評論『童謡作法問答』や長編童話『愛の歌』を出版。この年、民謡、童謡普及の講演旅行が多くなる。
大正11年(40歳)「黄金虫」「シャボン玉」などを発表、童謡、民謡の普及を目的として、権藤圓立らと結成した「楽浪園」に加わる。
大正十三年(42歳)北多摩郡武蔵野村(今の武蔵野市)吉祥寺に転居。「あの町この町」を雑誌『コドモノクニ』に発表。
大正15年・昭和元年(45歳)11月「野口廣子」の名で両親の野口量平、てる夫妻の墓碑建立。刻字は雨情。満州(今の中国東北地方)各地に講演旅行する。
昭和18年(61歳)5月25日、雨情除籍、分家される。7月、ヒロが野口家に復籍。雨情2月に発病。
昭和19年(62歳)鹿沼市に住んで足尾銅山への物資の調達などをしていた、つるの父中里九一郎の紹介で栃木県河内郡姿川村(今の宇都宮市)鶴田1744番地に疎開、療養生活に入る。疎開とはいっても、実際は戦争中に軍歌を作らなかったため、懇意にしていた主婦の友社社長が心配して軍部に追及される前に東京から逃れさせたとの説もある。 事実、雨情は親しい人に「戦争は詩にならない」と話していた。しかし、愛国精神は持ち続け、短冊に「雨は篠つき、波風荒りょと、国の柱は動きゃせぬ」とも書いている。
昭和20年(1945年)1月27日、永眠。享年62。3月に磯原の野口家墓地に分骨埋葬される。墓碑には『野口雨情墓』
つる夫人は昭和30年秋に武蔵野市に引き揚げ、同55年2月2日、77歳で死去。東村山市にある小平霊園に埋葬。墓碑には『野口英吉・妻つる』、雨情とともに眠っている。
雨情一家