寂しかった葬儀・没後の一家

HOME | 寂しかった葬儀・没後の一家

寂しかった葬儀

 
 雨情の葬儀は、物資が極端に不足していた敗戦直前のことだけに大変だった。この辺の事情について、前田一雄は老人クラブの会誌『雨情寿会の声』(今の『あの町この町』)にこう書いている。
 
 当時この辺りの風習として、組内に葬式ができると、組長が18戸の組員を招集して葬式の役割を決めていました。組長自ら葬儀委員長をやりました。まだ戦争は続いていましたので、物資不足が底をついたような時期でしたから、雨情さんの葬式も大変でした。
 大げさに言えば、東奔西走して葬具を調達しなければなりませんでした。組員の誰かが棺桶を運ぶのに荷車を探してはきたものの、棺の蓋をするのに釘もないので、縄で縛る始末でした。つる夫人は組員の若い人の、パンクしそうな自転車の荷台に腰をかけて火葬場に行きました。
 有名な雨情さんの葬式にしてはまことに淋しいものでした。異様な光景でありましたが、当時はこれが普通の葬式でした。その後、つるさんは10年ほど住んで、家の脇のわずかな畑を耕して野菜などを作っていました。つるさんに会ったとき、「多くの詩や童謡を作った詩人ですから、鶴田にいる間に作られたこの地に因む詩でもありますか」と聞きましたら、「病身であったし、戦時中のことで、そんな余裕はありませんでした」とのことでした。
 
 当時は土葬が主流だった組内では初めての火葬ということでてんてこ舞い、縄で縛られた棺には紋付羽織が掛けられ、塩釜神社の宮司によって神葬祭で行われた。
 戦後の復興とともに世の中が落ち着くにつれ、隣組の人たちは口々に、「今ごろまで生きていれば、雨情さんの葬式は盛大にできたのに」と述懐した。
 


■雨情没後の一家

 
 つる夫人は育ち盛りの一男五女を抱え、家の前のイチゴ園を畑にして、いも類など腹にたまる野菜を作っていた。それだけでは飢えをしのぐことができない。ついに水田30アールを確保してコメ作りをするまでに至った。茨城県の下妻生まれで水戸育ち、農作業とはまったく縁のなかった世界からの、やむにやまれぬ「就農」だった。
 朝から田んぼに入って仕事をし、帰りにはよく近所の農家に立ち寄っては、囲炉裏端で農業のことを学んでいた。そんなひととき、冷えた両手を暖めようと囲炉裏の火にかざすと、指先にはいまにも割れそうなアカギレが。慣れない農作業と栄養不足、アカギレの手はその苦労を物語っていた。
 やがて子どもたちも成長して高校進学になると、一人二人と武蔵野市に引き揚げ、つる夫人だけが昭和30年秋まで残って家屋敷を守っていた。
 戦後も落ち着いてくると、ラジオでは雨情の童謡が盛んに歌われるようになり、著作料が入るようになって、一家の暮らしも次第に豊かになった。